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東京高等裁判所 平成10年(ネ)2300号 判決

控訴人(原告) X

被控訴人(被告) 株式会社第一勧業銀行

右代表者代表取締役 A

右訴訟代理人弁護士 宮沢邦夫

藤本博史

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は、控訴人に対し、五八五万三六七〇円及びこれに対する平成三年五月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え(原審における請求の趣旨と同一。原判決二頁記載の請求の趣旨は誤記である。)。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

4  仮執行の宣言

二  被控訴人

主文と同旨

第二事案の概要

一  前提事実

当事者間に争いのない事実及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

1  控訴人の母Bは、平成二年一一月二四日死亡したが、その当時、被控訴人(新橋支店)に対し、普通預金二三八万一六九五円及び定期預金二口合計二六〇〇万円の各預金債権(以下「本件相続預金」という。)を有していた。

2  Bの相続人は、長男の子三名、三男の子三名、四男C、五男控訴人、六男Dであり、控訴人の相続分は五分の一である。

3(一)  控訴人は、平成三年四月二〇日、被控訴人の所定の「証」と題する相続預金受取書(甲五の1 Cを代理受領者とするもの)の相続人欄に住所、氏名を自署して押印し、右「証」をCに渡し、もって、Cに対し、控訴人に代わって本件相続預金の払戻手続及び受領をする権限を与えた(以下「本件授権」という。)。

(二)  Cは、控訴人以外の相続人からも右「証」に署名押印を得て授権を受け(もっとも、控訴人は、後述するとおり長男の二女Eの署名押印については、疑問を述べている。)、相続人全員の印鑑登録証明書を添付して(ただし、控訴人の印鑑登録証明書は平成二年一二月一一日発行のものであり、控訴人は、本件相続預金の払戻しのためにCらに右印鑑登録証明書を交付したことはないと主張する。)、平成三年五月、被控訴人に対し、本件相続預金の払戻しを請求し、被控訴人は、同月二二日、Cに対し、本件相続預金二九二六万八三五一円(当日までの利息を含む。)を支払った。

二  控訴人の主張

1(一)  Cは、真実は、本件相続預金を一人で領得する意思であるのに、これを秘して、相続税納付の原資とするために本件相続預金の払戻しを受けたい旨虚偽の事実を申し向けて控訴人を欺罔し、控訴人に「証」に署名押印させた。

(二)  控訴人は、平成三年五月一日、Dに対し「本件相続預金の払戻しに同意しない。」と通知し、また、同月八日、神奈川県中郡二宮町における控訴人の印鑑登録を抹消し、もって、Cに対する本件授権を取り消した。

2  ところで、以下に述べるとおり、被控訴人は、控訴人が本件授権を取り消したことを知っていたか、知らなかったとしても過失がある。また、被控訴人が本件授権の消滅後にCに本件相続預金の払戻しをしたことは、銀行の顧客に対する善良な管理者の注意義務又は忠実義務に違反する。したがって、本件相続預金の払戻しは無効である。

(一) 印鑑登録証明書の有効期限は発行後三か月である。被控訴人は、控訴人の印鑑登録証明書が有効期限を徒過していたので、「証」に「相続人Xの印鑑証明書期限切れであるが、受諾処理扱いとしたい。」と書き加えた上、担当課長印を押捺して、本件払戻しを行った。

(二) 被控訴人は、自社内には控訴人の署名・印鑑照合用の資料を持ち合わせていなかったし、控訴人の印鑑登録証明書が期限切れであると認識していたから、Cに対して本件相続預金の払戻しを行うについては、控訴人に対して直接その意思を確認するか、新たな印鑑登録証明書の提出を求めることによって控訴人の意思を確認すべき義務があった。

しかるに、被控訴人は、右のような手続を踏まずに、本件相続預金の払戻請求に応じた。

3  よって、控訴人は、被控訴人に対し、預金返還請求権に基づき、前記第一、一、2記載のとおり、本件相続預金の五分の一である五八五万三六七〇円及びこれに対する払戻しのされた平成三年五月二二日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

三  被控訴人の主張

仮に、控訴人がCに対する本件授権を取り消したとしても、被控訴人は、右取消しの事実を知らなかった。そして、前記一、3、(二)記載のとおり、控訴人を含む相続人全員の署名押印のされた「証」及び相続人全員の印鑑登録証明書が提出されて、本件相続預金の払戻請求を受けたので、被控訴人は、代理受領者とされたCに本件相続預金の払戻し、受領の権限があると信じた。被控訴人には、本件授権が消滅したことを知らなかったことについて過失もなく、善良な管理者の注意義務等の違反もないから、本件相続預金の払戻しは有効である。

なお、控訴人の印鑑登録証明書は平成二年一二月一一日発行のもので、発行後五か月を経ていたが、印鑑登録証明書に正規の有効期限があるわけではなく、この点においても、被控訴人の措置に問題はない。

第三争点に対する判断

一  本件相続預金の払戻しの経緯

証拠(甲三の1、2、五の1、2、乙三)及び弁論の全趣旨によれば、前記前提事実に加え、次の事実が認められる。

1  Cは、本件相続預金の払戻しを受けて相続人全員の相続税納付の原資とすることを考え、他の相続人もこれに賛成し、控訴人もこれに応諾して、平成三年四月二〇日「証」に署名押印していったんは本件授権をした。

2  Cの意図に賛成したDは、平成三年四月二九日ころ、控訴人宅を訪ね、控訴人の印鑑登録証明書の交付を求めた。しかし、控訴人は、同年五月一日、前記のとおり本件授権を取り消すつもりで、Dに電話で「本件相続預金の払戻しに同意しない。」旨通知し、さらに、同月八日、自己の印鑑登録を抹消し、Dらに印鑑登録証明書を送付しなかった。

しかし、控訴人は、Cに対して直接本件授権を取り消した旨の通知をしたことも、被控訴人に対して本件授権を取り消した旨を通告したこともなかった。

3  Cは、相続税の申告期限(平成三年五月二四日)が近づいたのに、控訴人から印鑑登録証明書が送付されなかったので、平成二年一二月一一日発行の控訴人の印鑑登録証明書(その発行の日付等からすると、控訴人においてBが死亡した後に、その発行を受けてCないしDに交付したものと推認することができる。)を添付して、「証」を被控訴人に提出し、本件相続預金の払戻しを請求した。

4  被控訴人においては、融資をする際には発行後三か月以内の印鑑登録証明書を要求することはあったが、相続預金の払戻しに際しては印鑑登録証明書の有効期限を定めてはいなかったところ、本件相続預金の払戻担当者は右の点を誤解して、「証」に「相続人Xの印鑑証明書期限切れであるが、受諾処理扱いとしたい。」と書き込んだ上、上司のF課長の決裁を仰いだ。F課長は、右書込みのうち「期限切れ」との部分は担当者の誤解に基づくものであり、あえて印鑑登録証明書の再提出を求める必要がないとして、本件相続預金の払戻しに応ずることを承認し、被控訴人は、代理受領者と記載されたCに対し、本件相続預金を支払った。

二  本件相続預金の払戻しの効力

1  控訴人は、Dに対し「本件相続預金の払戻しに同意をしない。」旨通知し、あるいは印鑑登録を抹消することにより、Cに与えた本件授権を取り消し又は撤回したと主張するが、本件全証拠によっても右取消し等の意思表示がCに到達したことを認めるに足りない(なお、前記一、2後段参照)から、本件授権が有効に取り消され、又は撤回されたということはできない。

2  仮に、本件授権が有効に取り消され又は撤回されたとしても、被控訴人が右の事実を知っていたと認めるべき証拠はなく(乙三及び弁論の全趣旨によれば、Cの経営する株式会社信光ビルディングと被控訴人新橋支店との間に取引関係があったことが認められるが、右事実のみから、被控訴人において本件授権が消滅したことを知っていたと推認することができない。)、かえって、前記認定のとおり、控訴人が本件授権の取消し等を被控訴人に通知しなかったこと及び本件払戻手続の経過に照らすと、被控訴人は、本件授権の取消し等の事実を知らなかったものと認めることができる。

3  そこで、さらに、被控訴人が本件授権の取消し等を知らなかったことについて過失があったかどうかについて検討する。

(一) 印鑑登録証明書は、文書の作成者が本人に相違ないこと、文書が本人の意思に基づいて作成されたこと、又は面識がない者が人違いでないこと等を証明するために取引において使用されるが、一般的に印鑑登録証明書の有効期限を定めた法令があるわけではなく、個別の法令等により印鑑登録証明書の有効期限が定められることがあるにすぎない(例えば、不動産登記法施行細則四四条参照。なお、公証人法二八条二項、三二条二項は、印鑑登録証明書等の提出を要するものとしているが、これらの印鑑登録証明書について、昭和二四年五月三〇日民事甲第一二八二号法務省民事局長通達は、作成後六か月以内のものとしている。)。

(二) 被控訴人においては、相続が発生した場合の預金の払戻し等について相続人の印鑑登録証明書等を徴求することとしているが、その印鑑登録証明書の有効期限については特に限定を設けていない。しかし、右の場合の預金の払戻し等について発行後三か月以内の印鑑登録証明書の添付を要求する銀行もある(甲一四)。

なお、被控訴人は、新規の口座を開設したり、大口の現金取引をする場合には、発行後六か月以内の印鑑登録証明書を徴求し、融資をする場合には、保証人又は担保提供者等から発行後三か月以内でできるだけ最新の印鑑登録証明書を徴求することとしている(以上につき乙四の1ないし3、五の1、2)。

(三) これまで検討してきたところによれば、印鑑登録証明書は、当該文書の作成者ないしその意思の確認等の手段にすぎないから、法令に格別の定めがない限り、たとえ発行後三か月以内のものないし最新のものではなく、その後若干時日を経過したものであったとしても、当該文書の作成名義人、内容、性質、重要性等に鑑みて、特段の疑いを容れるべき事情がないときは、これをもってその作成者ないしその意思の確認等をすれば足りるし、その際、印鑑登録証明書を徴求する者の内部的な取扱いに反するところがあったからといって、その故をもって、直ちにその取引の相手方に対する関係でも当該文書の作成者ないしその意思の確認等を怠ったということもできないというべきである。しかし、その反面、たとえ発行後三か月以内の最新の印鑑登録証明書が提出、徴求されたとしても、右の特段の疑いを容れるべき事情があるときは、これのみをもって直ちに当該文書の作成者ないしその意思の確認等をすることは許されず、新たな印鑑登録証明書の提出を求めるなどして直接当該文書の作成者ないしその意思の確認をする必要があることは当然である。

本件相続預金の払戻請求の際に提出された控訴人の印鑑登録証明書は発行後三か月は経過したものの六か月以内のものであったが、同時に提出された控訴人以外の相続人の印鑑登録証明書が発行後三か月を経過したものであることを認めるに足りる証拠はない。そして、控訴人は、Dに対し「本件相続預金の払戻しに同意しない。」旨通知し、かつ、平成三年五月八日に自己の印鑑登録を抹消したとしても、被控訴人に対しては、極めて容易に、本件授権を取り消した旨の通知、連絡をすることができたにもかかわらず、そのような通知、連絡をしなかった。

以上によれば、被控訴人において、控訴人が本件授権の取消し、撤回等を行ったことを疑わせる事情も、控訴人の印鑑登録証明書が不正に入手されたことを疑わせる事情もあったということはできないから、右の特段の疑いを容れる事情があったということはできない。

そうとすると、被控訴人には、改めて控訴人の意思を確認したり新たな印鑑登録証明書の提出を求めたりする義務があったということはできず、結局、被控訴人が本件授権が消滅したことを知らなかったことにつき、過失があったということはできない。

4  控訴人は、被控訴人が善良な管理者の注意義務及び忠実義務に違反したから、本件相続預金の払戻しは無効であると主張するが、右主張も、結局、本件授権の消滅を知らなかったことについての過失の内容をいうものであるから、採用することができない。

三  なお、控訴人は、「証」のEの住所、氏名の記載及びEの印影等は他の相続人の手によるものであるから、「証」にはEの意思表示がなく、無効であるとも主張する。しかし、そもそも、控訴人が本件訴訟において右のような瑕疵を主張することができるとは考えられないが、この点を措くとしても、本件全証拠によっても、控訴人の右主張を認めるに足りない。

四  以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、控訴人の請求は理由がないからこれを棄却すべきであり、これを棄却した原判決は相当であって本件控訴は理由がないから、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 増井和男 裁判官 岩井俊 高野輝久)

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